【いきものがかり】リーダー水野良樹が歴史を振り返る「いきものがたり」
11月3日はいきものがかりの結成記念日!今年で16周年。おめでとうございます!デビュー当時からのファンで、これからもどんな曲、物語を届けてくれるのか楽しみです。
今日の21時〜LINE LIVE CASTで行なわれる「いきものがかり 結成16周年記念特番 ~○○決定スペシャル~」LIVE CASTでどんな発表があるのか気になります。
そんないきものがかりのリーダー、よっちゃんこと水野良樹さんがTwitterでいきものがかりの歴史を語っています。その名も、「いきものがたり」。現在第−1回〜1回まで公開中。聖恵ちゃんが加入したところまで。どこまで続くのでしょうか。
インタビューやLIVEの合間、昔のブログでこんなこと話してたな〜って懐かしくなります。よっちゃんの語る秘話にぐいぐい引き込まれていく。世の中にたくさんの物語を送り出してきたからこそ、ストーリーテリングがうまい!
よっちゃんのTwitterのお気に入り欄から読むことができるのですが、自分のメモ用にもまとめておきたいと思います。
2016年3月15日の、デビュー10周年にむけて。 連続ツイート企画 【いきものがたり】 不定期更新です。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
第-1回。よっちゃんとほっちの出会い。
『第 −1 回』 今日の1枚。 二人時代のいきものがかり。 pic.twitter.com/nnzkWBjdum
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(1) 始まりは、27年前。神奈川県海老名市。小学校1年生。山下と出会う。「ほたか」という名前が「ほたる」と聞こえて、変わった名前だなと思ったことが初対面の記憶。クラスメートだったが、幼なじみと呼べるほど仲が良かったわけではない。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(2) 1年1組だった。大きなマンションが近所に出来て、夏休みが明けるのを機に、100人ほどの転入生が入ってくることに。あまりの転入生の多さに、入学早々だったがクラス替えをすることになった。そのため、山下とクラスメートだったのは1学期のあいだのわずか数ヶ月間だけだ。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(3) そのわずかな期間に二人で任されたクラスの係りが”いきものがかり”。廊下に小さな水槽があり、金魚にエサを与える。普通は飼育がかりと呼ぶのだろうが、小学校1年生に「飼育」という言葉は難しいと思ったのだろう、担任の先生が”いきものがかり”と名付けた。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(4) はからずも”名付け親”となってしまった担任の先生は、ずいぶん後になってからテレビに出ている”いきものがかり”というグループのメンバーが、自分の知る「みずのくん」と「やましたくん」であると、人に知らされて、気づいたそうだ。ライブ会場に花を贈ってくれた。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(5) そのときは二人ともおおいに驚き、後日、連絡をとってライブに招待した。今でもよくライブを見に来てくれる。クラスの係りの名前をつけることが、まさか教え子の人生を変えるなんて思いもしていなかっただろう。でも、先生にはいい名前をつけてもらったと思う。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(6) 小学校時代の山下との思い出はほとんど無い。遊び仲間のグループも違った。山下が遊んでいたグループは、公園に秘密基地をつくってやんちゃをするような子供たち。自分が遊んでいたグループは、部屋にこもってみんなで漫画雑誌をつくるような子供たち。対照的だった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(7) 中学に入ると山下とはさらに疎遠になる。実は中学校1年生のとき、同じクラスだったらしいのだが、その事実を大人になって卒業アルバムを確認するまで二人ともすっかり忘れていた。お互いを意識することなどなかったのだと思う。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(8) 高校受験が迫り、自分は県内の高校ではなく、少し遠方の私立高校を受験する気でいた。中学での人間関係にうまく適応できなかった当時の自分は、どうにか地元から離れた、誰も知るひとのいない高校へ行きたいと考えていた。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(9) だが、人生とはおもしろおかしく転がるもので、受験した私立の高校は全てが不合格となる。あの当時はずいぶんと落胆をしたものだけれど、受かって別の高校に通っていたら、山下と親しくなることもなかっただろうし、吉岡に至っては出会うことさえなかった。縁だな、と思う。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(10) 高校に入ると疎遠だった山下と親しくなる。部活動が盛んだった母校。そこからあぶれた”帰宅部”の二人。実家も近いので、帰り道をともにすることが多くなった。いきものがかりを結成してからは独特の距離感を保つようになったけれど、この時期はまだ、お互いを「友達」と呼べる時期だった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(11) 山下にいつから「よしき」と呼ばれるようになったかを覚えていない。気づけば自分も山下のことを「ほたか」と呼ぶようになっていた。他人から下の名前で呼ばれることも、他人を下の名前で呼ぶことも、自分の人生では、彼が初めてだったと思う。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
(12) やることはなかった。暇を持て余していた。そんなとき「ゆず」というグループが音楽シーンに登場した。地元のテレビ局で流れたミュージックビデオに感化された山下が「路上ライブをしたい」ともちかけてきた。いつもの帰り道での、何気ない会話。人生は動いていたのだと思う。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 28
第0回。いきものがかり、初めての路上ライブ。
『第0回』 今日の1枚。 ビナウォークができる前の海老名駅前で。 pic.twitter.com/uH9BzIrVep
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
(13) 16年前。99年2月1日。いちいち日にちを覚えているのは、なぜか律儀に活動日記をつけていたからだ。近くの公民館に無料で借りられる音楽室があり、試しに二人で練習をすることに。だが、いざ行くと公民館は休館日。仕方なく駐車場で歌った。その日を一応の結成日としている。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
(14) 外で歌った経験などもちろんなかったので、駐車場での練習は想像以上に気持ちが良かった。その心地よさだけが、強く印象にある。まだ自分は一度も聴いたことがないが、山下はその日の録音テープを持っているという。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
(15) グループ名は高校生になるまでそれほど親しくなかった自分たちの唯一の共通点を、山下が思い出してきたことから。「小1のときに生き物係だったんだよ。うちら」「あ、そうだったっけ?」「それ、とりあえずのグループ名にしよう」「おう、いいよ」とりあえずのつもりがもう16年経った。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
(16) 小田急線の相模大野駅で、初めて路上ライブに立つ。99年4月13日。恥ずかしさと緊張で、まだ誰も見てやしないのに、ギターケースを開くのにも1時間ほどかかった。地元の海老名や厚木ではない、少し離れた相模大野の駅を選んだのも、もし友達に見られたら恥ずかしい、という理由だった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
(17) 初めて立ち止まってくれたお客さんは、20歳だという若い女性。「君たち、ナミエ歌える?」安室奈美恵さんの曲をリクエストされた。歌えなかった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
(18) 当時は空前の”ゆずブーム”。ゆずを真似して路上で歌う男の子たちに、ゆずファンである女の子たちが足を止め、キャッキャと青春を楽しんでいる光景が、日本全国そこらじゅうで見られた。水野、山下のふたりも、そんな光景のなかにいた。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
(19) 約10年後になるが横浜スタジアムで行われた音野祭というライブで、ゆずのお二人と共演を果たす。駅前でよくカバーしていたのが「ねこじゃらし」だと伝えると一緒に演奏してくれた。嬉しかった。お二人と共演したことでそれまでの憧れや夢に区切りをつける機会にもなった。大切な瞬間だった
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
(20) ふたりで路上に立っていた頃。水野がメインを歌い、山下がコーラスとハーモニカを担当するという役割分担。ほとんどがカバー曲だったが、「赤いかさ」「地球」「からくり」などの楽曲は当時からあった。吉岡が加入する前から、それらは演奏していたと思う。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
(21) 他のバンドを並行してやっていたこともあって、曲をつくりだしたのは自分の方が早い。それを見て「良樹ができるのなら、俺もできるだろう」と山下も曲を作ってくる。1曲目はあまり良くなくて、それを伝えたら2曲目に持ってきたのが「地球」だった。すごく良かったので、驚いたし、焦った。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
(22) 曲をつくり始めた頃から、自分と競争をし合うようなライバルが目の前にいたことは、お互いにとって本当に幸運だったと思う。その競争は「地球」を聴いたときから始まり、今、この瞬間も続いている。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
(23) 半年ほど経ち、女性ボーカルを入れようという話になった。少しづつ客を集められるようになったが、男性二人組だと女子高生しか足を止めてくれない。街には自分達と同じ、ゆずを真似しただけの男性二人組のユニットが溢れていた。真似をしているだけではつまらないと、少し、感じ始めていた
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 10月 31
第1回。聖恵ちゃんとの運命的な出会い。
『第1回』 今日の1枚。 いきものがかり、3人。 pic.twitter.com/q1lqRkbD2K
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(24) 吉岡との出会いは、厚木市内の市営スタジオの廊下。今は無いが、当時、図書館に併設された簡易的な防音スタジオが市民に安価で貸し出されていて、お金の無い高校生はそこでバンド練習をするのが常だった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(25) 椎名林檎さんがブレイクをした頃だった。椎名林檎さんのコピーバンドをしたいと、友達連中で盛り上がる。しかし肝心の女性ボーカルがいない。当時の母校はバンド活動が盛んで、相談する仲間はたくさんいた。すると友人のバンドでボーカルをしていた”吉岡くん"の妹が「歌がうまい」という。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(26) スタジオで待ち合わせた。早めに着いた自分は、廊下で座って待っていた。間もなく、ベーシストの男の子がくる。彼とも、その時はまだそれほど親しくなかったので、ふたりでぎこちなく雑談をしていると、廊下の向こうから、とんでもなく明るいオーラを放った女の子がやってきた。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(27) 突然、親しげにベーシストの男の子に挨拶をするので「知り合いなの?」と聞くと「いや、この子だよ。吉岡くんの妹。この子が、ボーカルの聖恵ちゃん。」「あ、君が。」それが、吉岡聖恵だった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(28) 「はじめて吉岡さんの歌声を聴いたとき、運命を感じましたか?」などと訊かれることがたまにあるけれど、そんなにドラマチックな感情はなかった。ただ、とっても明るい子だなぁということと、とっても歌がうまい子だなぁということ。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(29) しばらくして彼女を、いきものがかりのボーカルに誘ったらいいんじゃないかと思うようになる。歌が上手いことはもちろんだけれど、何よりその天真爛漫なキャラクターが、水野と山下の二人に挟まれた真ん中に、とても合いそうな気がした。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(30) いつもの帰り道。たしかもう、夜だった。相鉄バスの一番後方の席。横並びに座った隣に、山下がいた。”聖恵ちゃん”という女の子のことを、そのとき初めて話した。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(31) 「吉岡くんの妹が歌がうまいんだよ。誘ったらいいと思うんだ」「おお、いいじゃん。誘ってみれば」そんな会話。すると驚くことにその瞬間に、当の本人である吉岡からメールが来た。「水野くん、路上ライブをしているって聞きました。よかったら一度、私も一緒に歌わせてくれませんか?」
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(32) 16年もやっていると「ああ、今、人生が変わるのかもな」と思う瞬間に何度か出会う。最初にそれを感じたのは、この時だった。誘おうという話をしていたまさにその瞬間に、吉岡からのメール。その驚きを強く覚えている。でも、山下はその日のことをあまり覚えていないらしい。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(33) 吉岡加入前に、よく水野と山下で路上ライブをやっていた相模大野駅の近くには、女子高がある。その女子高で文化祭があった。年頃の男子高校生だ、山下と友達数人でそこに遊びに行くことになった。そのなかには吉岡の兄もいた。文化祭帰りに、いつもの流れで路上ライブをやることになる。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(34) 吉岡の兄が「うちの妹と一緒に路上ライブをやるって話になってるんでしょ?今から、あいつを呼ぼうか?」電話で妹を呼んでくれた。しばらくすると赤い縁のメガネをした吉岡がやってきた。山下はそのときが初対面。そのメガネの印象が強いと言う。吉岡は「精一杯のおしゃれだった」とのこと。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(35) その場でキーを合わせ、ゆずの「夏色」を歌った。このときもドラマティックな感覚はなかった。山下も、別に何とも思わなかったという。吉岡からも 「ただ楽しかった」くらいの感想しか聞いたことがない。あえて言うなら、不思議なほど3人になったことが”自然”ではあった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
(36) 今から思えば3人であることが、初めて一緒に演奏したその日から"自然"であったことのほうが"特別"だったのかな、とは思う。安い芝居じみた言い方をすれば「まるで最初から、そうであったかのように」 ちょうど16年前。99年11月3日。 僕らは、やっとスタートラインに立った。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第2回』。 結成16周年を迎えました。 これからもよろしくお願いします。いつも、ありがとう。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 2
第2回。突然のスカウトで、将来を考える。
『第2回』 今日の1枚。 高校時代の路上ライブ。 pic.twitter.com/hAvXY82e3g
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(37) 吉岡が加入して3人となってからの路上ライブは毎週水曜日、本厚木駅の北口、タクシーロータリー前。スマホはまだない。ネットが今ほどは普及していなかったから、ホームページで告知...なんてこともない。いつも同じ時間に、同じ場所でやる。それがいちばん手っ取り早い。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(38) 練習場所は母校の校舎などで。ひとり、別の高校にいた吉岡は、よく放課後に兄のジャージを借りて、水野と山下がいる学校へ紛れ込んでいた。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(39) 先生にみつかり、こっぴどく叱られたこともあった。「君、本当にうちの学校の子か?クラスは?」吉岡「2組です」「うそつけ!うちの高校のクラス分けはA組、B組…のアルファベットだ!」吉岡「ああ!すみません」「君、吉岡の妹だろ!知ってるんだぞ!」知ってるんかい、と思った。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(40) 吉岡が加入してからは客層も大きく広がり、学生も、スーツ姿の大人たちも、家族連れも、誰もが立ち止まってくれるように。学校帰りに3人とも学生服のまま路上ライブをしていたので、その姿も珍しかったのだろう。その頃から今まで、あまり客層に変化がないことは、ありがたいし、誇りだ。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(41) 路上ライブのエピソードには事欠かない。本厚木駅は夜9時からが露店の時間と決まっていたらしい。9時になると「たこやき屋のオヤジ」が軽トラでやってくる。「邪魔だ!」と大声で怒鳴りながら。演奏するメンバーとお客さん。その間のわずか数mの空間に軽トラを停める。さえぎるように。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(42) 「誘っていないけれど、なぜかコラボレーションをしてくる人たち」も多かった。演奏の横で踊り始めたり、自分たちの目の前に突然ヘッドスライディングをしてきたり、ボンゴを持ってきて曲に合わせて夢中で叩きはじめたり。マイクを奪って歌おうとする酔っ払いのおじさんも多かった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(43) そういうときは焦ってしまったらいけない。トラブルが起きたと思って客が逃げてしまう。ユーモアを交えてうまく対応できれば、逆に「おもしろいことが起きている!」とお客さんが集まってくる。ずいぶんと鍛えられた。酔っ払いのおじさんと絶妙な掛け合いをするのが、吉岡はうまかった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(44) とにかく楽しかった。音楽の道に憧れはあれど、いきものがかりでプロになろうなどとは、3人とも高校時代は考えていなかった。例えるならそれは、学校の部活動のようなもの。ただただ、楽しかった。そんななかで少し意識に変化が生まれるできことが訪れる。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(45) 路上ライブに、某有名番組のスタッフを名乗る大人が訪ねてくる。新人を売り出すオーディションがあるから君たち受けてみないか。今から考えれば、怪しいことこの上ない話だが、なにせ世間知らずの田舎の高校生だ。「これは世に言うスカウトってやつかっ!」と、びっくりしてしまった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(46) ノコノコと行ったこともない東京のど真ん中?赤坂見附のオーディション会場に3人で出向く。2曲ほど歌ったと思う。自分が演奏中、緊張で無表情だったようで「君はやる気があるのか?」と審査員らしき男性に怒られた。不本意でムスッとした。今でもその時のことをメンバーにからかわれる。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(47) それでも「合格です」と後日、連絡がくる。勢いで受けたがさすがに呑気な高校生でも、いよいよ「あれ?これはやばいんじゃない?俺ら、騙されてない?」本当のところを言うと騙されていたのか、ちゃんとしたものだったのか未だにわからないのだが、このまま話を進めるのはよそう、となった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(48) そのオーディションがきっかけとなり、将来について話すようになる。誘われた話自体はあやしかったが、それまで楽しいだけでやっていたものの「先」が、もしかしたらあるのかもしれないと思ってしまって、急に3人とも、戸惑ってしまったのだ。まだ10代だ、無理もない。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(49) 吉岡と水野は音楽の道に進もうと当時から考えてはいたが、それが「いきものがかり」で、とは思っていなかったと思う。その頃の「いきものがかり」は、とにかく”楽しい”だけだった。真剣に考えれば考えるほど、軽はずみな気持ちで、この道の先を進んでは行けないように、そのときは思えた。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(50) 高校生なりに話し合った結果、このグループは楽しいままの思い出として、高校のうちにおしまいにしよう、解散しようとなった。それこそ夏の大会で引退をする部活動のように。水野や山下はもう3年生になっていて、受験も控えていた。地元の駅で解散ライブをすることになった。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(51) 解散ライブのことはよく覚えている。本厚木駅の広場に100人か200人か、高校生3人の路上ライブにびっくりするほどの人が集まった。いつの間にか地元では少し名を知られているようになっていた。充実感もあったし、高校時代の素敵な思い出となった。ああ、楽しかった。そう思っていた。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(52) 解散ライブのために3人で配った手作りの宣伝用チラシには、格好をつけてこんなセリフが大きく書かれている。「これを逃すと、もう会えない」まさか、想像していなかった。それから15年後の今も、たくさんの人に会いまくっているだなんて。
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
おまけの1枚。 15年前の解散ライブのチラシ。 もう会えない…てか、すごく会えてる。 pic.twitter.com/0Z05fZsw2J
— 水野良樹 (@mizunoyoshiki) 2015, 11月 6
(追記)
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